俳人・
荻原井泉水(おぎわら・せいせんすい、明治十七年・1884年~昭和五十一年・1976年、東京生まれ)を通して、自由律俳句を感じとります。
彼が編纂者である出典に載せられた井泉水の俳句は、晩年の作品が中心ですが、自薦の作品といえます。
前回、俳句を「象徴の詩」といった彼の言葉から、詩の長さについて想うことを記しました。彼には「象徴の詩」にふさわしい、最も適した、字数、音数についての、体感的な感覚があったと思います。それは伝統的な十七文字からかけ離れたものではありませんでした。
そのうえで、私が興味深く感じたのは、彼が
「連作」詠み、自薦していることです。自由律俳句であっても、一句には十七音前後の完結性がふさわしいと考えていた彼が、詩のかたちでさらに踏み出そうとしたときに、一句一句が完結しつつさらに響きあう広がりをあわせもつ「連作」の可能性を探求したように、私は感じます。
以下、私が印象深く好きだと感じた数句を引用し、詩想を◎印の後に記します。
蝶連作 十句 健康とは、病気のあとの蝶がとんでいる
五月
門はさして蝶々、郵便はポストにくる
蝶として生れたことを舞いに舞う
春は音もなく羽ばたいてくる蝶か
橋があるので蝶々、橋を行く
蝶のあとから参る
蝶が消えたので風がある
絶壁、蝶がのぼる
(鎌倉)
蝶々、一の鳥居からは渚になる
(瑞泉寺)
富士の見える座禅石、蝶が坐っている
◎一句一句が独立した簡潔性をもちながら、連作としたことで、
句と句の間に、心理的な「時間の流れ」「物語性」が生まれています。
その時間は一方向にばかり流れるものではなく、逆流して遡ったり、重なり混じり濁りあったり、泉のように突然湧き出したりします。
この十句の響きあいの「時間の流れ」「物語性」をどのように感じ取るかに決まった正解はなく、読者に委ねられています。ひとりの読者でさえ、読み返すたびに、作品に感じる時間性の感覚は変わる可能性すら許されています。
前回、一句の内部の音数律の組み合わせの自由さを、自由律俳句の特徴として見つめましたが、連作における句と句の響きあう形の自由さもまた、自由律俳句の優れた可能性だと私は思います。
同時にこの作品は、もう所謂「詩」との違いはなく、「蝶連作 十句」というタイトルを変えて「蝶」とすれば、「詩」といえます。定型俳句の流れから生まれた口語自由律俳句と、新体詩の流れから生まれた
口語自由詩が交わるところにある作品だと思います。
口語自由詩においても、行の独立性、改行、行間は、詩と行分ける散文(形だけ詩らしく改行した散文)の違いを生む、緊密度が必要な要素だからです。連作の一句一句の独立性と、詩連を形作る詩行の緊密度には、ほとんど質的な差異はないと私は感じます。
新しい詩型は古典詩歌の破調、破調はやがて自然に感じられる時がきて、詩歌の川の流れはより豊かに輝きます。
星 十句(から二句)
夕べ一つ星無数のつづく星を予言して、消ゆ
夜の星か露草の露として朝に満つ
◎十句ありますが、連作意識は弱く、この二句が独立した句としてそれぞれ美しいと私は感じました。
狂体 二句 (アポロ十一号月面着陸) 月へうさぎ狩りに行く詩人(うたびと)ではなく
月から見るわが地球の円き青きうつくしさこそ
◎「狂体二句 (アポロ十一号月面着陸)」と付記されてこそ強さが増すので、タイトルを含めた全体を作品と捉えるのが良いと感じさせる、まとまりがあります。口語自由詩がタイトルと本文のまとまりの作品であることと似ています。
いのちまだ死なずにいた蝉のまた鳴く
たしかに枯れ色の蝶の、この葉ではなく
◎独立した二句。それぞれ完結した美を奏でつつ、木魂し、響きあいをも感じさせます。象徴の詩であり、彼の人間性とまなざしを感じる、好きな句です。
次回からは、荻原井泉水を師とした二人の強烈な個性、種田山頭火と尾崎放哉を通して、自由律俳句を見つめます。
出典『現代句集 現代日本文学大系95』(1973年、筑摩書房) ☆ お知らせ ☆
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