私が十代の終わりから二十代に影響を受けた
北村透谷の詩と評論を見つめ直し評論を読み返す中で、私の心に特に響き今も共感を覚える透谷の言葉を、
主要な主題「1.詩、詩人」、「2.恋愛」、「3.平和、戦争」にわけて抜粋します。評論でありながら透谷の言葉には詩精神がみなぎっています。
出典は
『北村透谷選集』(岩波文庫、1970年)です(作成に当たっては青空文庫も利用させて頂きました)。
1.詩、詩人 詩人は、本質的なもの、真、善、美を情熱、熱意をもって感応し再造し発露する器だとの言葉に、私は共感し、励まされています。
『富嶽の詩神を思ふ』(初出:「文学界」、1893(明治26)年1月、24歳)
「是より風流の道大に開け、人麿赤人より降つて、西行芭蕉の徒、この詩神と逍遙するが為に、富嶽の周辺を往返して、形 (けい)なく像(ざう)なき記念碑を空中に構設しはじめたり。詩神去らず、この国なほ愛すべし。詩神去らず、人間なほ味あり。」
『想像と空想』(初出:「平和」、1893(明治26)年3月、24歳)
「吾人が生れながらにして享有する性質の中に、真を欽(きん)し、善を喜び、美を愛するの性質ほどに重んずべきものはあらず。 極めて幼きものにして音楽の調((しらべ)に耳を傾け、極めて野蛮なる土民にして自(おのずか)らに鳥声を疑似するを見れば、人間は実に他界の美妙なる音楽なしには生活すること能はざる動物なるべし。」
『内部生命論』(初出:「文学界」、1893(明治26)年5月、24歳)
「文芸は宗教若(もし)くは哲学の如く正面より生命を説くを要せざるなり、又た能はざるなり。文芸は思想と美術とを抱合したる者 にして、思想ありとも美術なくんば既に文芸にあらず、美術ありとも思想なくんば既に文芸にあらず、華文妙辞のみにては文芸の上乗に達し難く、左りとて思想のみにては決して文芸といふこと能はざるなり、」
「究竟するに善悪正邪の区別は人間の内部の生命を離れて立つこと能はず、内部の自覚と言ひ、内部の経験と言ひ、一々其名 を異にすと雖、要するに根本の生命を指して言ふに外ならざるなり。詩人哲学者の高上なる事業は、実に此の内部の生命を語( セイ)るより外に、出づること能はざるなり。」
「瞬間の冥契とは何ぞ、インスピレーシヨン是なり、この瞬間の冥契ある者をインスパイアドされたる詩人とは云ふなり、」
「畢竟(ひつきやう)するにインスピレーシヨンとは宇宙の精神即ち神なるものよりして、人間の精神即ち内部の生命なるものに対する一種の感応に過ぎざるなり。吾人の之を感ずるは、電気の感応を感ずるが如きなり、斯の感応あらずして、曷(いづく)んぞ純聖なる理想家あらんや。
この感応は人間の内部の生命を再造する者なり、この感応は人間の内部の経験と内部の自覚とを再造する者なり。(略)何処までも生命の眼を以て、超自然のものを観るなり。再造せられたる生命の眼を以て。」
『熱意』(初出:「評論」、1893(明治26)年6月、24歳)
「人生を解釈せんとする者は詩人なり、而して、詩人の、尤も留意するところは、意味の一字にあり。熱意は即ち意味なり。全く熱意なくして意味ある者あらず。意味を生ずるものは熱意なり。人生に意味あるは即ち熱意あるが故なり。」
『情熱』(初出:「評論」、1893(明治26)年9月、24歳)
「故に大なる詩人には必らず一種の信仰あり、必らず一種の宗教あり、(略)唯だ俗眼を以て之を視ること能はざるは、凡(すべ)ての儀式と凡ての形式とを離れて立てる宗教なればなり。」
「あはれむべき利己の精神によつて偸生(とうせい)する人間を覚醒して、物類相愛の妙理を観ぜしめ、人類相互の関係を悟らしむるもの、宗教の力にあらずして何ぞや。」
「いかに深遠なる哲理を含めりとも、情熱なきの詩は活(い)きたる美術を成し難し。(略)
美術に余情あるは、その作者に裡面(りめん)の活気あればなり、余情は徒爾(とじ)に得らるべきものならず、作者の情熱が自からに湛積 (たんせき)するところに於て、余情の源泉を存す。(略)大なる創作は大なる情熱に伴ふものなり、」
『万物の声と詩人』(初出:「評論」、1893(明治26)年10月、24歳)
「情及び心、一々其軌(そのき)を異にするが如しと雖(いへども)、要するに琴の音色の異なるが如くに異なるのみにして、宇宙の中心に懸れる大琴の音たるに於ては、均しきなり。個々特々の悲苦及び悦楽、要するにこの大琴の一部分のみ。」
「斯(ここ)に於て、凡ての声、情及び心の響なる凡ての声の一致を見る、高きも低きも、濁れるも清(す)めるも。然り、此の一致 あり、この一致を観て後に多くの不一致を観ず、之れ詩人なり。この大平等、大無差別を観じて、而して後に多くの不平等と差別とを観ず、之れ詩人なり。天地を取つて一の美術となすは之を以てなり。あらゆる声を取つて音楽となすは之を以てなり。詩人の前には凡ての物、凡ての事、悉く之れ詩なるは之を以てなり。」
「宇宙の中心に無絃の大琴あり、すべての詩人はその傍に来りて、己が代表する国民の為に、己が育成せられたる社会の為に、 百種千態の音を成すものなり。」
「渠を囲める小天地は悲(かなしみ)をも悦(よろこび)をも、彼を通じて発露せざることなし、渠は神聖なる蓄音器なり、万物自然の声、渠に蓄へられて、 而して渠が為に世に啓示せらる。秋の虫はその悲を詩人に伝へ、空の鳥は其自由を詩人に告ぐ。牢獄も詩人は之を辞せず、碧空も詩人は之を遠しとせず、天地は一の美術なり、詩人なくんば誰れか能く斯の妙機を闡(ひら)きて、之を人間に語らんか。」
2.恋愛 純潔を敬う心は島崎藤村の詩集と美しく共鳴していると私は感じます。けれど透谷はその表層に留まらず男女の情 の深みを覗き見る目をもっていて、結婚の実生活で味わい苦しんだ幻滅も言葉に滲んでいる気がします。
『厭世詩家(えんせいしか)と女性』(初出:「女学雑誌」、1892(明治25)年2月、23歳)
「恋愛は人世の秘鑰(ひやく)なり、恋愛ありて後(のち)人世あり、恋愛を抽(ぬ)き去りたらむには人生何の色味かあらむ、」
『「歌念仏」を読みて』(初出:「女学雑誌」、1892(明治25)年6月、23歳)
「抑(そもそ)も恋愛は凡ての愛情の初めなり、親子の愛より朋友の愛に至(いたる)まで、凡(およ)そ愛情の名を荷ふべき者にして恋愛の根基より起らざるものはなし、進んで上天に達すべき浄愛までもこの恋愛と関聯すること多く、人間の運命の主要なる部分までもこの男女の恋愛に因縁すること少なからず。左れば文人の恋愛に対するや、須(すべか)らく厳粛なる思想を以(も)て其美妙を発揮するを力(つと)むべく、苟くも卑野なる、軽佻なる、浮薄なる心情を以て写描することなかるべし。」
「恋愛は詩人の一生の重荷なり、之を説明せんが為に五十年の生涯は不足なり、然れども詩人と名の付きたる人は必らずこの恋愛の幾部分かを解得(げとく)したるものなり。而して恋愛の本性を審(つまびらか)にするは、古今の大詩人中にても少数の人能く之を為せり、」
『処女の純潔を論ず(富山洞伏姫の一例の観察)』(初出:「白表・女学雑誌」、1892(明治25)年10月、23歳)
「天地愛好すべき者多し、而(しか)して尤も愛好すべきは処女の純潔なるかな。(略)噫(ああ)人生を厭悪するも厭悪せざるも、 誰か処女の純潔に遭(お)ふて欣楽せざるものあらむ。」
「悲しくも我が文学の祖先は、処女の純潔を尊とむことを知らず。(略)嗚呼(ああ)、処女の純潔に対して端然として襟(えり)を正( ただし)うする作家、遂に我が文界に望むべからざるか。」
「夫(そ)れ高尚なる恋愛は、其源を無染無汚の純潔に置くなり。純潔(チヤスチチイ)より恋愛に進む時に至道に叶(かな)へる順 序あり、然(しか)れども始めより純潔なきの恋愛は、飄漾(ひようよう)として浪に浮かるる肉愛なり、何の価直(かち)なく、何の美観なし。」
『桂川(かつらがわ)」(吊歌)を評して情死に及ぶ』(初出:「文学界」、1893(明治26)年7月、24歳)
「人の世に生るや、一の約束を抱きて来れり。人に愛せらるゝ事と、人を愛する事之なり。造化は生物を理するに一の法を設けたり、禽獣鱗介(きんじゅうりんかい)に至るまで、自(おのず)からこの法に洩るゝ事なし。之ありて万物活情あり、之ありて世界変化あり、他ならず、心性 上に於ける引力之なり。(略)細かに万物を見れば、情なきものあらず。造化の摂理愕(おど)ろくべきものあり。
或は劣情と呼び、或は聖情と称(とな)ふ、何を以て劣と聖との別をなす、(略)若し人間の細小なる眼界を離れて、造化の広濶なる妙機を窺えば、孰(いずれ)を聖と呼び、孰を劣と称(よ)ぶを容(ゆ)るさむ。濫(みだ)りに道法を劃出(かくしゅつ)して、この境を出づれば劣なり、この界に入れば聖なりと言ふは何事ぞ」
「「情」の如き、「慾」の如き、是等のものは常に裸体ならんことを慕ひて、縦(ほしいまま)に繋禁を脱せんことを願ふ。」
「情死軽んずべからず。「世の中に絶えて心中なかりせば、二世のちぎりもなからまじ」(略)、と「冥土の飛脚」に言はせたる巣林子(さうりんし)、われその濃情を愛す。」(*巣林子は、近松門左衛門)。
「嗚呼狂なり、然り、狂なり、然れども世間の狂にして斯の如く真面目なる狂ありや。幻と呼び夢と呼ぶも理(ことわり)あれど、斯の如く真実 なる幻と夢とは、人間の容易に味ひ得ざるところ。之を以てわれは情死を憫(あわ)れむ事切なり。」
3.平和、戦争 人生は戦争の歴史なり、と見据えたうえで、平和を求めた透谷の言葉に共鳴しその響きをより強める言葉を 私は伝えて生きたいと願っています。
『「平和」発行之辞』(初出:「平和」、1892(明治25)年3月、23歳)
「抑(そもそも)、平和は吾人最後の理想なり。(略)人と人との間、邦(くに)と邦との間に猜疑(さいぎ)騙瞞(へんまん)若し今日(こんに ち)の如くにして終るとせば、宗教の目的何所(いずく)にかあらむ。強は弱の肉を啖(くら)ひ、弱は遂に滅びざるを得ざるの理(こ とわり)、転々して長く人間界を制せば、人間の霊長なるところ何所にか求めむ。基督、仏陀、孔聖、誰れか人類の相闘ひ、相傷 ふを禁ぜざる者あらむ。」
「天下誰れか隣人を愛するを願はざる者あらむ。」
『最後の勝利者は誰ぞ』(初出:「平和」、1892(明治25)年5月、23歳)
「人生は戦争の歴史なり。(略)人生即ち是れ戦争。(略)力ある者は力なき者を殺し、権(けん)ある者は権なき者を殺し、智ある者は智なき者を殺し、業(ぎょう)ある者は業なき者を殺し、世は陰晴常ならず、殺戮(さつりく)の奇巧なるものに至つては、晴天白日の下(もと)に巨万の民を殺しつゝあるなり。(略)閃々たる剣火は絶ゆる時なきなり。」
「博愛は人生に於ける天国の光芒(こうぼう)なり、人生の戦争に対する仲裁の密使なり、」
「相争ひ相傷(きずつ)くる者に遭ひては、万斛(ばんこく)の紅涙を惜しまざる者なり。」
「世は相戦ふ、人は相争ふ、戦ふに尽くる期あるか。争ふに終る時あるか。殺す者は殺さるゝ者となり、殺さるゝ者は再(ま)た殺す者となる。」
「不調実(インコンシステンシイ)にして戦争の泉源なりとせば、調実は平和の始めなり。争はず戦はざる事を得るはひとり調実なりとせば、終(つひ)に勝たず終に敗れざる者、ひとり調実のみならむ。(略)故に曰く、最後の勝利者は調実なりと。調実、言を換ゆれば真理、 再言すれば基督。」
『復讐・戦争・自殺』(初出:「平和」、1893(明治26)年5月、24歳)
「 復讐と戦争
一個人の間には復讐なり。国民と国民の間には戦争なり。(略)宗教の希望は一個人の復讐を絶つと共に、国民間の戦争を断たんとするにあるべし。」
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