私にとって、
イタリア詩は、その源流のラテン語
詩、
オイディウスの『変身物語』以降は空白地帯でした。
西欧の
詩歌とその
詩法を見つめなおそうと思い見つけて読むことができた出典の『イタリアの
詩歌―
音楽的な
詩、詩的な
音楽』はとても教えられることの多い発見に満ちた心を豊かに揺らしてくれる本でした。
今回と次回はそのなかから、
ペトラルカのカンツォーネを見つめます。
まず、ドイツ詩を見つめた際にも記しましたが、詩行中のメリハリ、音節の強弱がはっきりしていることを、日本語のメリハリがまったくない個性と対照的で、鮮烈に感じます。
西欧人の自己主張の強さと、日本人の控えめな奥ゆかしさの違いが
詩歌に浮き出ていることから、
詩歌は心の表現だという当たり前だからこそ大切なことを再認識させられます。
現在は西欧人に近づくことを進歩、論理的な押しの強い主張を良しとする風潮に染まっていますが、私は日本古来の奥ゆかしさ、
他に譲る優しい気持ちが好きだし大切にしたいと考えています。そんな優しい心の人にはこの世は生きづらいけれど、私はそんな人が好きだし大切だし幸せをえてほしいと願います。
だから日本で受け継がれてきた他者を思いやる心こそ人が生きる上で根本的にとても大切なことだと、争いを繰り返し殺し合いを続けてきた、続けている西欧の人たちに逆に伝えたいと願います。
もう一つ、
ペトラルカの詩の技法と力量についての、出典の論考に共感します。
日本に生きる私には、五七五、五七調、七五調の音数律のリズム、美しい調べが心に沁み込んでいます。だからこそ、
字余りや、字足らずを織り交ぜる詩の技法による変化、転調は、単調さを崩して、新鮮な言葉の
音楽に連れ戻してくれます。
このことは、
イタリア詩でも日本語の詩でも、言葉の個性を越えて共通しているんだと、感じることができました。
次回は、
ペトラルカの魅力的な
愛のカンツォーネを引用して感じ取りたいと思います。
●以下は、出典からの引用です。1.
ペトラルカのカンツォーネ
(略)たいへん有名な『カンツォオーレ』126番を取り上げることにしましょう。スタンツァの第1行
通常の11音節
詩行ではなく次のような7音節
詩行で、いかにも水の流れを思わせる軽快なすべり出しを見せます。
Chaiare, fresche et dolci acque, (7)
*出典の原文にある各音節と強弱の記号は引用省略しています。(7)は行の音節数です。
(略)第5音節と第6音節という隣接する音節がどちらも強音節になっています。7音節
詩行の構造として、これはもちろん破格です。本来ならば第5音節は弱音節であるべきところでしょう。(略)この
詩行の読み方としては、[キアーレ・フレスケ・ェ・ドルチ・アックェ]とやるのが正しい。
つまり、杓子定規に7音節
詩行を本当に7音節にしてしまって「ターン(1強)タ(2弱)ターン(3強)タ(4弱) タ(5弱)ターン(6強)タ(7弱)…」という具合に読んではいけないのだということです。ただ、この
詩行は先に申しましたように確かに《破格》ではありますが、だからといって読者に不自然な印象を与えるわけではありません。このあたりが
ペトラルカの技であり、才能であるわけで、また彼がそのような技を効果的に使いこなすことができる背景としては、イタリア人の頭脳に7音節詩行のリズムが先天的と言ってもいいほどの自然さをもって刻みこまれているという事情があります。
つまり、いわば規格として頭の中に7音節詩行の枠ができているところに、その枠から僅かに外れるような詩句が入ってきますと、イタリア人の耳は無意識のうちにそれを既成の枠の中に押し込んでしまうわけです。
ただし、その「枠から僅かに外れる」要素は、韻律法の側面のみならず意味論的な面からも、それが全体の中でごく自然に響くように特に工夫されている必要があります。そうでないと、たとえ「僅か」ではあれ「枠から外れる」部分はやはり「外れ」ているわけで、どうしても不自然に響いてしまうからです。(略)
ペトラルカは語内合音によって7音節詩行を構築しながら、その一方で、第5音節と第6音節の間に、存在しないはずの弱音節が一個あたかも介在するかのような幻影を作り出しているのです。(略)
このカンツォーネは(略)かつて
ペトラルカがそこで水遊びをするラウラをうっとりと眺めたことのあるソルグ川の流れを歌ったものです。そう考えると、常に一定の方向を保つリズムのあり方も川面に現れる波の動きを思わせると同時に、
詩人のラウラに対する変わらぬ思慕を象徴するかのようにも思われてきます。
出典:
天野恵「第3章イタリアの詩形」から。『イタリアの詩歌―音楽的な詩、詩的な音楽』(2010年、三修社)
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