正岡子規の『歌よみに与ふる書』について思うことを記そうとしています。順序が逆になりましたが、まず子規自らの歌を読み返して私が好きだと感じた歌を記します。
私が若い頃に暗誦した数少ない歌のひとつが星の「真砂なす」の歌です。たぶん芥川龍之介の『侏儒(しゅじゅ)の言葉』の引用で知り、好きになったのだと思います。私自身は長い行の詩ばかり書いてきましたが、暗誦できる短さであることが短歌の良さ、魅力のひとつだと思っています。誰かに作品の一部の詩句であっても暗誦してもらえる詩を生むことも、私の願いのひとつです。
今回正岡子規の歌を読み返して、万葉集や源実朝の『金槐(きんかい)和歌集』への子規のこだわりは、嘘偽りの主張のための主張ではなく、とくに病の床での歌に凝縮して現れていると感じました。
*出典は、
『子規歌集』(土屋文明編、岩波文庫)。
*原文の引用に続けて( )内にひらがなで読みを記します。
鎌倉由比が浜
天つ空青海原も一つにてつらなる星かいさりする火か(あまつそらあをうなばらもひとつにてつらなるほしかいさりびするひか)
金州 二首
みまかりしまな子に似たる子順礼汝が父やある汝が母やある(みまかりしまなこににたるこじゅんれいながちちやあるながははやある)
病中
神の我に歌をよめとぞのたまひし病ひに死なじ歌に死ぬとも(かみのわれにうたをよめとぞのたまひしやまひにしなじうたにしぬとも)
星
真砂なす数なき星の其の中に吾に向ひて光る星あり(まさごなすかずなきほしのそのなかにわれにむかひてひかるほしあり)
たらちねの母がなりたる母星の子を思ふ光吾を照せり(たらちねのははがなりたるははぼしのこをおもふひかりわれをてらせり)
しひて筆を取りて
いちはつの花咲きいでて我が目には今年ばかりの春行かんとす(いちはつのはなさきいでてわがめにはことしばかりのはるいかんとす)
病む我をなぐさめがほに開きたる牡丹の花を見れば悲しも(やむわれをなぐさめがほにひらきたるぼたんのはなをみればかなしも)
世の中は常なきものと我が愛ずる山吹の花散りにけるかも(よのなかはつねなきものとわがめずるやまぶきのはなちりにけるかも)
夕顔の棚つくらんと思へども秋待ちがてぬ我がいのちかも(ゆふがおのたなつくらんとおもへどもあきまちがてぬわがいのちかも)
京の人より香菫(にほひすみれ)の一束を贈り来しけるを
やみてあれば庭さへ見ぬを花菫我が手にとりて見らくうれしも(やみてあればにはさへみぬをはなすみれてにとりてみらくうれしも)
鎌倉由比が浜の歌から思い浮かんだ私が好きな海の歌、与謝野晶子と若山牧水の二首を、あわせて書き留めたくなりました。
*出典は『日本詩歌選 改訂版』(古典和歌研究会編、新典社)。
与謝野晶子『恋衣』所収
海恋し潮の遠鳴かぞへつつ少女となりし父母の家(うみこひししほのとほなりかぞへつつおとめとなりしちちははのいへ)
若山牧水『海の声』所収
白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ(しらとりはかなしからずやそらのあおうみのあをにもそまずただよふ)
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