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与謝野晶子の詩歌(五)。この社会の向こうに。

 20世紀の冒頭から半ばまで、ゆたかな詩歌を創りつづけた女性、与謝野晶子の作品をみつめつつ詩想を記しています。

 今回は政治と社会を主題にした2篇の作品です。

 詩「駄獣《だじう》の群《むれ》」は、大日本帝国憲法下の議会と政治家についての、直接的な批判です。
 詩歌は感動から生まれ、人としての感情を伝えることができる表現手段です。不正に対する怒りもそのひとつだと私は思います。
 この作品で次の詩行が私には痛く響きます。

  「まして選挙権なき/われわれ大多数の / 貧しき平民の力にては……」

 当時の憲法下、選挙権はまだ限定されていたこと、女性にはなかったことを忘れてはいけません。(現在でも選挙権のまだない未成年のことを忘れてはいけないと私は思います)。
 社会へ意見を表明することは厳しく制限され、手段は限られ、検閲も厳しさを増しつつある状況での、この意思の表明には、学ぶべきものを私は感じます。
 晶子は社会評論で女性参政権についても書いていますが、怒りの高まりがこのかたちで生まれたのだと思います。
 直接的に「われわれ」と書くことは一つの立場を選ぶことです。味方と敵を分かち、味方のために敵に投げつける表現だから、味方にその時共有される考え方を越えて、より広く普遍性のある共感を生むのはとても難しく、主義の主張、スローガン、罵詈雑言に陥ってしまう危うさもはらんでいます。
 そう思いつつも、強権者におもねることをしない、黙らされている者の一人として意思を表明したこの言葉に、私も味方だから、共感を感じます。批評性は詩の一つの大切な姿です。その表現意思を傍観しつつ冷笑し見下す批評屋より、よほど優れていると私は思います。

  駄獣《だじう》の群《むれ》
                  与謝野晶子

ああ、此《この》国の
怖《おそ》るべく且《か》つ醜き
議会の心理を知らずして
衆議院の建物を見上ぐる勿《なか》れ。
禍《わざはひ》なるかな、
此処《ここ》に入《はひ》る者は悉《ことごと》く変性《へんせい》す。
たとへば悪貨の多き国に入《い》れば
大英国の金貨も
七日《なぬか》にて鑢《やすり》に削り取られ
其《その》正しき目方を減ずる如《ごと》く、
一たび此《この》門を跨《また》げば
良心と、徳と、
理性との平衝を失はずして
人は此処《ここ》に在り難《がた》し。
見よ、此処《ここ》は最も無智なる、
最も敗徳《はいとく》なる、
はた最も卑劣無作法なる
野人《やじん》本位を以《もつ》て
人の価値を
最も粗悪に平均する処《ところ》なり。
此処《ここ》に在る者は
民衆を代表せずして
私党を樹《た》て、
人類の愛を思はずして
動物的利己を計り、
公論の代りに
私語と怒号と罵声《ばせい》とを交換す。
此処《ここ》にして彼等の勝つは
固《もと》より正義にも、聡明《そうめい》にも、
大胆にも、雄弁にもあらず、
唯《た》だ彼等互《たがひ》に
阿附《あふ》し、模倣し、
妥協し、屈従して、
政権と黄金《わうごん》とを荷《にな》ふ
多数の駄獣《だじう》と
みづから変性《へんせい》するにあり。
彼等を選挙したるは誰《たれ》か、
彼等を寛容しつつあるは誰《たれ》か。
此《この》国の憲法は
彼等を逐《お》ふ力無し、
まして選挙権なき
われわれ大多数の
貧しき平民の力にては……
かくしつつ、年毎《としごと》に、
われわれの正義と愛、
われわれの血と汗、
われわれの自由と幸福は
最も臭《くさ》く醜き
彼等駄獣《だじう》の群《むれ》に
寝藁《ねわら》の如《ごと》く踏みにじらる……


 もう一篇の詩「不思議の街」は、反語で現在社会を風刺しながらユートピアを描く試みです。スウィフトの『ガリバー旅行記』第4篇に描かれたヤフーの世界を思い起こさせます。
 
 日本文学でこのような作風の作品は少ない気がします。社会を見つめる目と批評性と想像力の豊かさの資質がないと書けません。たとえば次のような詩句を書ける晶子を私は尊敬します。

  「戦争《いくさ》をしようにも隣の国がない。/ 大学教授が消防夫を兼ねてゐる。」
  「大臣は畑《はたけ》へ出てゐる、/ 工場《こうぢやう》へ勤めてゐる、」

 この作品も、社会的な立場、社会への考え方の違いによって、読者の好き嫌いは分かれると思いますが、詩の表現の可能性をはらんでいると私は感じます。

  不思議の街
         与謝野晶子


遠い遠い処《ところ》へ来て、
わたしは今へんな街を見てゐる。
へんな街だ、兵隊が居ない、
戦争《いくさ》をしようにも隣の国がない。
大学教授が消防夫を兼ねてゐる。
医者が薬価を取らず、
あべこべに、病気に応じて、
保養中の入費《にふひ》にと
国立銀行の小切手を呉《く》れる。
悪事を探訪する新聞記者が居ない、
てんで悪事が無いからなんだ。
大臣は居ても官省《くわんしやう》が無い、
大臣は畑《はたけ》へ出てゐる、
工場《こうぢやう》へ勤めてゐる、
牧場《ぼくぢやう》に働いてゐる、
小説を作つてゐる、絵を描いてゐる。
中には掃除車の御者《ぎよしや》をしてゐる者もある。
女は皆余計なおめかしをしない、
瀟洒《せうしや》とした清い美を保つて、
おしやべりをしない、
愚痴と生意気を云《い》はない、
そして男と同じ職を執《と》つてゐる。
特に裁判官は女の名誉職である。
勿論《もちろん》裁判所は民事も刑事も無い、
専《もつぱ》ら賞勲の公平を司《つかさど》つて、
弁護士には臨時に批評家がなる。
併《しか》し長長《ながなが》と無用な弁を振《ふる》ひはしない、
大抵は黙つてゐる、
稀《まれ》に口を出しても簡潔である。
それは裁決を受ける功労者の自白が率直だからだ、
同時に裁決する女が聡明《そうめい》だからだ。
また此《この》街には高利貸がない、
寺がない、教会がない、
探偵がない、
十種以上の雑誌がない、
書生芝居がない、
そのくせ、内閣会議も、
結婚披露も、葬式も、
文学会も、絵の会も、
教育会も、国会も、
音楽会も、踊《をどり》も、
勿論《もちろん》名優の芝居も、
幾つかある大国立劇場で催してゐる。
全《まつた》くへんな街だ、
わたしの自慢の東京と
大《おほ》ちがひの街だ。
遠い遠い処《ところ》へ来て
わたしは今へんな街を見てゐる。


● 出典は、インターネットの図書館、青空文庫
入力:武田秀男、校正:kazuishi。
・晶子詩篇全集。底本:「晶子詩篇全集」実業之日本社、1929年。
・晶子詩篇全集拾遺。底本:「定本與謝野晶子全集第九巻詩集一、同・第十巻詩集二」講談社、1980年。

次回も、与謝野晶子の詩歌を見つめ詩想を記します。
 ☆ お知らせ ☆

 『詩集 こころうた こころ絵ほん』を2012年3月11日イーフェニックスから発売しました。A5判並製192頁、定価2000円(消費税別途)しました。

 イメージング動画(詩・高畑耕治、絵・渡邉裕美、装丁・池乃大、企画制作イーフェニックス・池田智子)はこちらです。絵と音楽と詩の響きあいをぜひご覧ください。

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プロフィール

高畑耕治

Author:高畑耕治
Profile:たかばたけ こうじ
1963年生まれ大阪・四條畷出身 早大中退 東京・多摩在住

詩集
「純心花」
2022年イーフェニックス
「銀河、ふりしきる」
2016年イーフェニックス
「こころうた こころ絵ほん」2012年イーフェニックス
「さようなら」1995年土曜美術社出版販売・21世紀詩人叢書25
「愛のうたの絵ほん」1994年土曜美術社出版販売
「愛(かな)」1993年土曜美術社出版販売
「海にゆれる」1991年土曜美術社
「死と生の交わり」1988年批評社

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