20世紀の冒頭から半ばまで、ゆたかな詩歌を創りつづけた女性、
与謝野晶子の作品をみつめつつ詩想を記しています。
今回は与謝野晶子の詩を見つめる最終回です。「小鳥の巣(押韻小曲五十九章)」について、
日本語の口語自由詩に押韻により音楽性をもたせようとした彼女の試みを作品を通して感じとります。
五十九ある小曲から私の好きな作品を選びました。全体の特徴を挙げると、
① いづれも全5行の短い詩で、すべての詩行は
音数律七五調です。
例)いつもわたしの(七)むらごころ(五)
②
口語を主とした試みです。文語的表現はありますが、晶子の短歌はほとんど文語なのに比べるとずっと。
以上を踏まえ、口語の自由詩として音韻を踏んだことによる効果と、言葉の音楽性が高まったかどうかについては、以下個々の小曲を通してみつめ、感じたことを●印に続けて記します。なお、各小曲ごとの題名はありません。
(押韻している詩句は
赤色文字と
緑色文字にします)。
小鳥の巣(押韻小曲五十九章)(抄)
与謝野晶子 いつもわたしのむら
ごころ、
真紅《しんく》の薔薇《ばら》を摘む
こころ、
雪を素足で踏む
こころ、
青い沖をば行《ゆ》く
こころ、
切れた絃《いと》をばつぐ
こころ。
● 五行とも同じ詩句「こころ」の体言止めで結んでいるので、詩行の区切りはわかりやすく、単純ともいえます。
いつか大きくなるまま
に子らは寝に来《こ》ず、母の側《
そば》。
母はまだまだ云《い》ひた
きに、
金《きん》のお日様、唖《おし》の驢馬《
ろば》、
おとぎ噺《ばなし》が云《い》ひた
きに。
● 一、三、五行の押韻「にni」はとても弱い音ですが、三行目と五行目は詩句の想いの強さが押韻を強めています。二、三行目の「そば」、「ろば」はわかりやすく耳に残ります。
おち葉した木が空を
打ち、
枝も小枝も腕を張
る。
ほんにどの木も冬に
勝ち、
しかと大地《たいち》に立つてゐ
る。
女ごころはいぢけ
がち。
● 二、四行目の「る」は日常語の語尾なので押韻とまでは感じません。五行目は詩行は面白いけれど。無理やり押韻した不自然さがあります。
誰《た》れも彼方《かなた》へ行《ゆ》き
たがる、
明るい
道へ目を見
張る、
おそらく其処《そこ》に
春がある。
なぜか行《ゆ》くほどその
道が今日《けふ》のわたしに遠
ざかる。
● 二行目詩行中の「道へ」と四行目末の「道が」、二行目末の「張る」と三行目中の「春」が隠れた音の呼び合いをしています。「春があるharugaaru」の2回を含めてaruが5回押韻しているので、音が快いか、しつこいか、感じとり方は読者次第です。
青い小鳥のひかる羽《
はね》、
わかい小鳥の躍る
胸、
遠い海をば渡り
かね、
泣いてゐるとは誰《だ》れが知ろ、
まだ薄雪の消えぬ
峰。
● 単語の音が小変化する押韻、hane、mune、mineは、同じ詩句の繰り返しとはちがう変奏の快さがあります。
三行の「かね」に少しあるわざとらしさを、四行目の押韻のない行が打ち消している気がします。
がらすを通し
雪が積む、
こころの桟《さん》に
雪が積む、
透《す》いて見えるは枯れすす
き、
うすい紅梅《こうばい》、やぶつば
き、
青いかなしい
雪が積む。
● 語句の繰り返し、リフレインは、覚えやすい親しみを生んで、詩行を歌詞に近づけます。
うぐひす、そなたも雪の中、
うぐひす、そなたも悲しい
か。
春の寒さに音《ね》が
細る、
こころ余れど身が凍
《こほ》る。
うぐひす、そなたも雪の中。
● 詩行の繰り返し、変奏も、歌詞のようです。
摘め、摘め、誰《た》れも春の薔薇《ばら》、今日《けふ》の盛りの紅《あか》い
薔薇《ばら》、今日《けふ》に倦《あ》いたら明日《あす》の
薔薇《ばら》、とがるつぼみの青い薔薇《ばら》、
摘め、摘め、誰《た》れも春の薔薇《ばら》。● 各行末は、同じ詩句「ばら」で押韻してわかりやすくすぐ覚えられます。初行と最終行は同一の繰り返し、リスレインで、「摘め、摘め、」に強いリズム感があり、二、三行目も「今日」で頭韻しているので、全体が歌のよう。詩想からも童謡のようです。
論ずるをんな糸採《と》
らず、みちびく男たがや
さず、
大学を出ていと賢《さか》
し、言葉は多し、手は白
し、之《こ》れを耻《は》ぢずば何《なに》を耻
《は》づ。● 詩想と音数律の七五調が相まって、押韻はその型にはめ込むような役割をしていて、警句のようです。
雲雀《ひばり》は揚がる、麦生《むぎふ》
から。わたしの歌は涙
から。空の雲雀《ひばり》もさびし
かろ、はてなく青いあの虚《うつ》
ろ、ともに已《や》まれぬ歌な
がら。● 行末の「から」「かろ」「ろ」の組み合わせに流れと変化は童謡のよう。「はてなく青いあのhAtenAkuAoiAno」のように「アa」の音をふくむ詩句が多くその見え隠れが全体の音調をかもしだしています。
玉葱《たまねぎ》の香《か》を嗅《か》がせ
ても t A m A n e G i n o KA wO / KAGA s e TEMO
青い蛙《かへる》はむかんか
く。
A o i KA e r u w A / m u KA n KA KU
裂けた心を目にし
ても s A K e t A KO KO rO wO / m e n i s i TEMO
廿《にじふ》世紀は横
を向く、 n i j u u s e i k i w A / YO KO wO mUKU
太陽までがすまし行
《ゆ》く。 t A i YO m a d e g A / s u m a s i yUKU
● この歌は詩想にはほとんど意味がない、詩句の音楽性だけでできた詩です。(音をローマ字で記しました)。一、三行末の押韻「てもTEMO」は二文字音(子音+母音+子音+母音)なので響きがのこります。二、四、五行目の押韻「くKU」をふくめ、全体に子音Kの音、KA,KE,KOがとても多く強く、似通うGA、GIとの音も響き合っています。一、二、五行目はその他の詩句にも母音「A」が多く主調音になり、三、四行目には母音「A」が少なく母音は「I、U、E、O」が散らばり転調になっています。
音の調べに鋭敏な短歌を書き続けたから、こんな詩も書いたんだと思いました。
最後に、個々の小曲の詩としての完成度はまだ低いとしても、晶子のこの試みは日本語の自由詩にとって、とても貴重だと私は思います。詩と散文を分かつ、言葉の音楽性に、詩人なら無感覚でいられないからです。
1942年頃からの
中村真一郎、福永武彦、加藤周一らの、「マチネポエティク」の押韻の主張などを先取りしています。この主張は日本語の特性を深く見つめずに西欧詩の押韻を規範とすることにこだわりすぎたから自滅したと私は思います。
でも晶子に続く問題意識に学ばないなら、口語の言葉の音楽性に鈍感であるまま散文の行分けによる書き流しを続けてしまうと思います。散文を書く心は散文化します。詩心は鈍ります。だから音楽性に鈍感であるのは詩歌にとってよくないと私は考えます。
私自身は、日本語の自由詩で生み出せる音楽性は、ここで晶子が試みた詩法も含め、より古くひろく深く
和歌の調べを詩想にふさわしい繊細なかたちで織り合せた音色とリズムにあると考え、言葉の音楽にこだわりながら自由詩を創作しています。
(詩の音楽性については、
萩原朔太郎の『恋愛名歌集』などを通してみつめた記事
「歌の韻律美と口語自由詩」で書いていますので、(クリックして)お読み頂ければ嬉しく思います)。
● 出典は、インターネットの図書館、
青空文庫。
入力:武田秀男、校正:kazuishi。
・晶子詩篇全集。底本:「晶子詩篇全集」実業之日本社、1929年。
・晶子詩篇全集拾遺。底本:「定本與謝野晶子全集第九巻詩集一、同・第十巻詩集二」講談社、1980年。
次回は、与謝野晶子の短歌を見つめ詩想を記します。
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