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艶にもあはれにも聞ゆる『古来風躰抄』藤原俊成(一)

『古来風躰抄』藤原俊成(一)

 日本の詩歌、和歌をよりゆたかに感じとりたいと、平安時代からの代表的な歌学書とその例歌や著者自身の歌を読み、感じとれた私の詩想を綴っています。

 今回からは、藤原俊成が1197年頃執筆し式子内親王に贈った『古来風躰抄(こらいふうていしょう)』です。俊成は、第七代勅撰集『千載和歌集』撰者で、藤原定家の父です。
 引用箇所は、俊成の、和歌についての考えが述べられている箇所です。あわせて、同じ考えを繰り返し述べたうえで、さらに補足している「慈鎮和尚自歌合」判詞(1198年頃)についても、感じとれた私の詩想を記します。

1.『古来風躰抄』

 俊成は和歌について、「歌はただ声に出して読んだり、抑揚をつけて朗詠したりした時に、何となく艶にもあわれにも感じられることがあるものであろう。」と述べます。「朗詠する時の声に伴う韻律によって、良くも悪くも感じとられるものである。」と。
 言葉の音楽性、調べ、さらに詠みあげる声調が、歌の良し悪しをきめる、本質的なものであると。
 私も詩歌にとって、言葉の音楽性は、生命力だと思います。美しいと心に響いてくる詩歌は、言葉の調べそのものが美しい音楽です。

●以下は、出典1からの引用です。

歌のよきことをいはんとては、四条大納言公任卿は金の玉の集と名付け、通俊(みちとし)卿の後拾遺の序には、「ことば縫物(ぬもの)のごとくに、心海(うみ)よりも深し」などと申しためれど、必ずしも錦縫物(にしきぬもの)のごとくならねども、歌はただよみあげもし、詠(えい)じもしたるに、何(なに)となく艶(えん)にもあはれにも聞(きこ)ゆる事のあるなるべし。もとより詠歌といひて、声につきて善(よ)くも悪(あ)しくも聞ゆるものなり。

  <現代語訳>
 歌のすばらしいことを言おうとして、四条大納言公任卿は、自分の編纂した撰集に金玉集と名付け、
通俊卿は後拾遺の序文において、「表現は刺繍(ししゅう)のように華やかで、内容は海よりも深い」などと言っているようだが、必ずしも錦地のように美しく飾りたてなくても、歌はただ声に出して読んだり、抑揚をつけて朗詠したりした時に、何となく艶にもあわれにも感じられることがあるものであろう。もともと詠歌と言って、朗詠する時の声に伴う韻律によって、良くも悪くも感じとられるものである。

2.「慈鎮和尚自歌合」判詞

 俊成は、調べ、音楽性が、和歌の本質といえるものだとの考えを述べたうえで、さらに踏み込み、次のように述べます。
 「よき歌になりぬれば、その詞・姿の外に景気の添ひたる様なる事のあるにや。」
景気は現在使われている経済での意味ではなく、ここでは、「言語によって喚起される視覚的映像、絵画的イメージ。」を意味しています。
 優れた詩歌は、言葉による音楽であると同時に、言葉による絵画であると。私はこの詩歌観に、深く共鳴します。
彼は、言葉により和歌から立ち昇る「視覚的映像、絵画的イメージ」の具体例として、「春の花のあたりに霞のたなびき、秋の月の前に鹿の声を聞き、垣根の梅に春の風の匂ひ、嶺の紅葉に時雨のうちそそぎなどするやう」を思い描きます。詩歌は、このような美しい情景、絵画、映像を、心象風景として、心に呼び起こしてくれる、美しく描き出し、見せてくれると。

 詩を愛する読者の方なら、言葉の音楽性も、イメージの絵画性も、ともにその美しさを、感じているからこそ、詩が好きで、読みたいと、自然に感じていると、私は思います。

 とても素朴、単純なことなのですが、あたりまえにそれを認めるのは、逆に難しいことでもあります。特に「詩はこいういうものでなければならない」、「こういうレベルになければ現代詩とよべない」といった理論づけ、批評の権威づけをしたがる、詩運動、流派、ジャーナリスティックな商業主義べったりの書き手による詩論、歌論ほど、偏狭になりがちで、このような詩歌の本質を見失いがちです。

 藤原俊成には、本質を見据える目があります。そのことを、次回以降、もう少し、掘り下げていきます。

●以下は、出典2からの引用です。

 大方、歌は必ずしもをかしき節を云ひ、事の理を云ひきらんとせざれども、もとより歌と云ひて、ただ読みあげたるにも、うち詠めたるにも、何となく艶にも幽玄にも聞ゆることあるなるべし。よき歌になりぬれば、その詞・姿の外に景気の添ひたる様なる事のあるにや。たとへば春の花のあたりに霞のたなびき、秋の月の前に鹿の声を聞き、垣根の梅に春の風の匂ひ、嶺の紅葉に時雨のうちそそぎなどするやうなる事の、泛(うか)びて添へるなり。常に申すやうには侍れど、かの「月やあらぬ春や昔の」といひ、「掬(むす)ぶ手の滴に濁る」など云へる也。何となくめでたく聞ゆるなり。(十禅師・十五番)

 <頭注>
月やあらぬ春や昔の―「月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身ひとつはもとの身にして」(古今集・恋五・業平、伊勢物語)
掬(むす)ぶ手の滴に濁る―「掬(むす)ぶ手の滴に濁る山の井のあかでも人に別れぬるかな」(古今集・離別、貫之)
 
 <歌論用語>
「景気」言語によって喚起される視覚的映像、絵画的イメージ。

出典1:「古来風躰抄」『歌論集 日本古典文学全集50』(有吉保校注・訳、1975年、小学館)
   :「歌論用語」、同上。
出典2:『日本詩歌選 改訂版』(古典和歌研究会編、1966年、新典社)


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プロフィール

高畑耕治

Author:高畑耕治
Profile:たかばたけ こうじ
1963年生まれ大阪・四條畷出身 早大中退 東京・多摩在住

詩集
「純心花」
2022年イーフェニックス
「銀河、ふりしきる」
2016年イーフェニックス
「こころうた こころ絵ほん」2012年イーフェニックス
「さようなら」1995年土曜美術社出版販売・21世紀詩人叢書25
「愛のうたの絵ほん」1994年土曜美術社出版販売
「愛(かな)」1993年土曜美術社出版販売
「海にゆれる」1991年土曜美術社
「死と生の交わり」1988年批評社

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