ひとりの市民の散文として、書き留めておきます。
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選挙後の行動、沖縄の高江への思慮の浅い同伴行為では権力の地位悪用者とのパイプを少し太くし首相職を貶めている人物との電話の会話を自慢した落選候補者は投票した主権者の多くからの次への信認を自ら細め壊し過去にしてしまった。必要なものは落選したことへの謙虚な猛省で、突飛な行動は知名度を悪用する自己本位の宣伝でしかない。
論破できない正論を流暢に述べても、より近い立場の人と選挙で力を合わせることを拒み、独善的な狭い視野で結果として強権勢力を利して増長させてしまってからも、主権者の口惜しさ、落胆、怒り、絶望と同じ場所に立たずに自分がやっぱり正しかったなど口にし考えられる人は、過去にして次を考える。
危機感がなんてうすっぺらなんだろう。
より近い考え、方向をめざそうとする人を、批判だけすることは、傲慢な為政者を利するだけだから、わたしは極力しないけれど、さらに溝をふかめて次への手探りを妨げ、強権者を利する自己本位なだけの行動ができる者は議員にも首長にもふさわしくない。
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8月9日はアメリカが長崎に原爆を落とした日。被曝した永井隆は『長崎の鐘』に書き記しました。「原子野に泣く浦上人は世界にむかつて叫ぶ、戦争をやめよ。」
広島で被爆した作家の原民喜も、永井隆の『長崎の鐘』の言葉に、こだまを返さずにはいられませんでした。「僕はこの書物が一冊でも多く人々によつて読まれ、一人でも多く「戦争をやめよ」といふ叫びがおのおのの叫びとなつて反響することを祈る。」。
http://ainoutanoehon.blog136.fc2.com/blog-entry-177.html原民喜は書いています。「恐ろしいのは多くの人々がまだ原子力の惨禍をほんとに鋭く感じとることが出来ないといふことだ。」。この言葉は今核兵器だらけの世界、渦中にある福島の原発事故、被災されている方たちのそばにいながら目をそらし忘れたかのようにふるまうこの社会にいる私の心に刺さります。
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柳田国男『先祖の話』。彼の祖霊についての信条、信仰がまずあり、それを確かめ言い聞かせるために書かれた書、柳田個人の思想、宗教観として祈りに通じるものを感じます。
その意味で宗教民俗学は、習合している神道と仏教と民間宗教について、積み重なり分かちがたい時間歴史的な地層のかたちと、現在のごっちゃにこんがらがった信仰、宗教観のあらわれを、丁寧に学として教えてくれます。
恐山のイタコ、捨身した僧の生きざま、お盆の精霊(しょうろう)、京都五山の送り火など、伝えられてきたこころ、祈りのかたちの源流、分岐し合流を繰り返しながら、ひとりひとりのひとのこころの泉にたたえられてきた水の美しさを教えてくれます。
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祈りは、排他的なものでも攻撃的なものでも決してなく、人間的なものです。神道も仏教もキリスト教も民間宗教もこころにおいて通いあうものです。狡知的打算的政略的なレッテルは矮小なごまかしです。祈りは国境などにさまたげられません。
愛したい愛されたいと願う人間、いのちを愛おしみ敬い守り育もうと願う人間、自らの愚かさと無力をしりつつそれでも祈ることをやめない人間は、戦争を叫ぶことなどありません。戦争の愚かさに怒り抗わずにいられない人間らしい方々が宗派をこえて今いらっしゃることを忘れずにいようと思います。
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