中国の戦国時代に生きた諸子百家の一人、
墨子(ぼくし、紀元前470年ごろ~390年ごろ)の言葉を、彼の弟子たちがまとめた書『墨子』から読みとり考えています。
今回の主題は、
非攻です。
墨子は、誰もが悪いことだと見なし、「政治を行なう人」が罰する悪事を書き連ねていきます。
まず、 「一人の男がいて、他人の果樹園に忍びこんでそこの桃や李(すもも)の実を盗」むこと。
次には、「他人の犬や鶏や大阪・小豚を盗む」こと。
さらには、「他人の厩舎(きゅうしゃ)に忍びこんで、人の馬や牛を盗みだす」こと。
凶悪さが増し、「罪もない人を殺してその着物をはぎ取り戈(ほこ)や刀剣を奪い取る」こと。
これらの悪事について、人間のほとんどの社会で常識とされてきた判断基準を述べます。
「他人に損害を与えることがいっそう大きければ、その薄情ぶりもいっそうひどいわけで、したがって罪もいよいよ重くなる」
そのうえで書き記した言葉は、政治屋、為政者、追従する知識人、マスコミの欺瞞と不正を晒し出さずにはいません。
「以上のような事件は、世界じゅうの知識人はだれでもそれを知ったなら非難し、それをよくないことだという。ところが、いま他国を攻撃するという大きな不正義を働くものについては、それを非難することを知らず、かえって追従(ついしょう)してそれを誉めたたえて正義であるといっている。」
この認識に私は深く共感するとともに、「過ちをくりかえさず」「二度と戦争などしない」ための、とても大切な境界線だと考えます。
単純で素朴であっても、人間らしい心の声を押し殺してはいけません。
「戦争は悪だ」。ごまかされず、この声を見失ってはいけないと思います。どんなに精緻な論証による大義を押しつけられても、人間が人間を殺すことを容認してしまうような組織、国家、為政者の大義は、おぞましい罪です。「戦争は悪だ」とだけ、言い続けることに徹することだと私は考えます。
さらに墨子は、人間のまっとうな心の声にだけ忠実に続けます。人間の社会で、共同生活の根底をささえるために、認められてきたこと。殺人は悪であり、社会に罰せられるということ、そのひどさがますほど、罰もより厳しく科せられることを、次のように。
「一人の人間を殺害すると、それを不正義として、きっと一つの死刑の罪」。
「十人を殺害すると十の不正義をかさねたことになって、きっと十の死刑の罪」。
「百人を殺害すると百の不正義をかさねたことになって、きっと百の死刑の罪が適用されるわけである。」
人間として社会生活を営むために、誰もが必要だと受け容れる、殺害と罪を述べた上で、政治屋、為政者、追従する知識人、マスコミの、欺瞞と傲慢さと不正をごりおしする態度を、厳しく問い返します。
「ところが、いま、他国を攻撃するという大きな不正義を働くものについては、それを非難することを知らず、かえって追従してそれを誉めてたたえて正義であるといっている。」
繰り返しますが、墨子のこの「非攻」の考えに私は心から共感します。人間のまなざし、嘘偽りを許さず、本当のことを見つめ、言おうとする、単純な、素朴な、強く、美しい、意思があるからです。
好戦的な政治屋は、口が上手く、賢しらで、あらゆる手を使い、卑劣も感じず、大義をおしつけ、「戦争することが必要だと」、人間を騙し、人間を殺しても、自分さえ死ななければ、何も感じず、平気です。自らが最前線の兵士とならない限り、人間が、人間に、人間を殺せと、命じる資格は、たとえ誤った法律が強制しようと、ありません。誰にもありません。
だから、集団が、法律が、誤った嘘を押付けようとするとき、墨子の言葉のように、「戦争は悪だ」と、繰り返しつづけ、生きようとする人間でありたいと、私は考えます。
●以下は、出典からの原文引用です。第十七 非攻(ひこう)篇 上一 いま一人の男がいて、他人の果樹園に忍びこんでそこの桃や李(すもも)の実を盗んだとすると、人々はそれを聞いて非難し、上にあって政治を行なう人はその男をつかまえて罰するであろう。それはなぜであるか。他人に損害を与えて自分の利益をはかるからである。
ところで、他人の犬や鶏や大阪・小豚を盗むということになると、そのよくないことは、他人の果樹園に忍びこんで桃や李の実を盗むよりもいっそうひどい。それはどんな理由によるものか。他人に損害を与えることがいっそう大きいからである。もし他人に損害を与えることがいっそう大きければ、その薄情ぶりもいっそうひどいわけで、したがって罪もいよいよ重くなる道理である。さらに他人の厩舎(きゅうしゃ)に忍びこんで、人の馬や牛を盗みだすということになると、そのよくないことは、他人の犬や鶏や大豚・小豚を盗むよりいっそうひどい。(略)さらにまた罪もない人を殺してその着物をはぎ取り戈(ほこ)や刀剣を奪い取るということになると、そのよくないことは他人の厩舎に忍びこんで馬や牛を盗み出すよりもいっそうひどい。それはどんな理由によるのか。他人に損害を与えることがいっそう大きいからである。もし他人に損害を与えることがいっそう大きければ、その薄情ぶりもいっそうひどいわけで、したがって罪もいよいよ重くなる道理である。
二 さて、以上のような事件は、世界じゅうの知識人はだれでもそれを知ったなら非難し、それをよくないことだという。ところが、いま他国を攻撃するという大きな不正義を働くものについては、それを非難することを知らず、かえって追従(ついしょう)してそれを誉めたたえて正義であるといっている。これでは、正義と不正義との区別をわきまえているといえようか。
三 いま一人の人間を殺害すると、それを不正義として、きっと一つの死刑の罪があてられる。もし、この道理をすすめてゆけば、十人を殺害すると十の不正義をかさねたことになって、きっと十の死刑の罪が適用され、百人を殺害すると百の不正義をかさねたことになって、きっと百の死刑の罪が適用されるわけである。こうした事件は、世界じゅうの知識人はだれでもそれを知ったなら非難し、それをよくないことだという。ところが、いま、他国を攻撃するという大きな不正義を働くものについては、それを非難することを知らず。かえって追従してそれを誉めてたたえて正義であるといっている。他国を攻撃するのが不正義であるということを、本当に知らないのである。だから、攻撃をすすめるようなことばを書きつらねて、後世に伝えるようなこともするのである。もしそれが不正義だとわかっていたら、そんなよくないことを書きつらねて後世に伝える理由はないはずである。
四(略)ところで、いまほんの少しよくないことをしたときには、それを認めて非難するが、他国を攻撃するという大きな悪事を働く場合には、それを非難することを知らず、かえって追従してそれを誉めたたえて正義であるといっている。これでは、正義と不正義との区別をわきまえているといえようか。以上のようなわけで、世界じゅうの知識人の正義と不正義との区別のしかたが、でたらめであることがわかるのである。
出典:『諸子百家 世界の名著10』(編・訳:金谷治1966年、中央公論社) 最後に、今回の主題と響きあう私の詩をこだまさせます。
詩「白黒が、セピア色に染まるまで」 (作品名をクリックしてご覧になれます。お読み頂けましたら嬉しいです。)
戦争がもたらす悪があり、原発がもたらす悪があります。悪を行なわせてはいけないと、一市民として私は思います。
次回は『墨子』をみつめる最終回、さらに彼の「非攻」を感じとります。
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