詩を好きなほとんどの方と同じように、私は本好きです。手ざわり、ページをめくる時、ひらひら木の葉のように風にささめく瞬間の流れに身を置くのがとても好きです。
小説などの文学書、特に詩は、紙のうえを遠足している
活字たちの姿も好きです。
小学生があいうえおの文字の容姿を楽しく心に焼きつけるのと同じほど、特に
ひらがなの丸みをおびた童顔とやわらかな体つきが好きです。だから、伝えられてきた、和歌や絵巻物のさらさら流れる書体、筆の濃淡や太いちから、細やかさやかすれのある、美しく動きのある姿を見るだけで、嬉しい気持ちになります。(ドストエフスキーが小説『白痴』で、ロシア文字の古書体の美しさを述べていますが、きっと似た気持ちです。)読みとる能力はありませんが、そこから、ひらがなたちが一人立ちしてきたと思いを馳せてみつめてしまいます。
こんな私ですから、日本語の文章は、
思いも息づかいも自然に流れてゆくと感じる縦書きが好きです。知識理解の用具・用法として散文を横書きする有用さはそれだけのことで、気にしません。
日本語の縦書きには、日本女性の黒髪の美しさ、しなやかに、なびき、揺れふるえる、美しさが匂います。
私は、このような言葉と文字への思い入れとこだわりがあるので、詩は縦書きでしか書けません。生まれた子供、作品もその顔かたちで、いつも心に立っています。
昨秋、ホームページを公開したときから、パソコン環境の制約から詩作品も横書きで公開してきました。正直なところ、作品の容姿を損ねることを我慢し、作品に対して、ごめん、と心で謝っていました。
だから、ようやくこの6月から縦書きに改定公開できて、とてもうれしく思っています。活字では無くても、ほとんど本来の顔かたちに戻れたと。
特に
詩集『さようなら』の作品たちは、思いと心の響きと文字の顔かたちすべて一体で生まれた詩ですので、嬉しい気持ちのままに一篇ここに引用します。横書きでは見殺しにしている思いでいた作品です。
詩「ゆき」(詩集『さようなら』から)。 言葉、文字の容姿が、詩の生命にしめる重要性は、
意味、表象、響きほどには高くないとしても、なくてはならない大切なものです。それらがいったいとなったものが、
詩の生命のゆたかさなのだから、喜びや悲しみ、込められた思いを届けてくれる、文字の容姿も大切にした詩を生みたいと願っています。
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