前回に続き、室町時代の歌謡の主流だった小歌《こうた》集の『閑吟集《かんぎんしゅう》』と『宗安小歌集《そうあんこうたしゅう》』を聴きとっていきます。出典は、
『新潮日本古典集成 閑吟集 宗安小歌集』の北川忠彦による訳文と解説「室町小歌の世界―俗と雅の交錯」です。出典の言葉と小歌そのものに私が感じとり考えることができたことを記していきます。
出典の著者は、室町小歌が歌われていた「旋律を正確に知るということは甚だ困難」だが、「曲節を離れて詞章を読むだけでも、室町小歌のおおらかで素直な、それでいて巧み巧まぬ独自のスマートさを備えた文芸としても面白さは、十分賞味出来る」として、歌われた時代背景とその多様な姿を、次のように教えてくれます。
小歌が歌われた室町時代は、「旅をする連歌《れんが》師、琵琶《びわ》法師、商人、職人等、中央と地方を結ぶ文化の運び手」に事欠かず、庶民の世俗のエネルギーがあふれだしました。
室町小歌は、日本のいたるところで、社会階層の隔たりを沁みぬけて、愛され謡われました。当時の様々な他の歌謡、「今様《いまよう》」、「和讃《わさん》」(仏教歌謡)、「早歌《そうか》」(宴曲)、「俚謡《りよう》」(地方の民謡)や「踊り唄」と影響を与え合いながら。
室町時代は、長篇の謡物《うたいもの》は「謡曲」や「放下歌《ほうかうた》」のような芸謡歌謡に委ねて、一般には短詩形歌謡を主流とした時代」だった、と著者は言います。
その中心に
短詩形の小曲の室町小歌がありました。
小歌は、「短い通俗的な歌謡」で「談話に使ふ通用語」がもちいられたからこそ、次のような新しさを持てたのだと私は思います。(西欧のルネッサンスでダンテが母国語の俗語ではじめて表現しえたものと通ずるものを感じますが、別の機会に考えます。)
小歌は、それまでの和歌の選別限定された言葉ではできなかった、次のような心の表現を初めて可能にしたと私は思います。
① 庶民の日常の生活での会話、肉声が聞こえ、顔の表情が見えること。(語りかけの語尾の・・・・なう、など)。
② 和歌に欠けがちだったユーモア、滑稽感、卑俗さといった感情が吐き出された歌があること
③ それまでなかった音のあざやかな表現。(からりころり。ちろり、など)。
新しい表現の力強さ、表現できる人間の心の幅のひろがりを、私は感じます。
また、『閑吟集』にはさまざまな詩形、文化の表現が盛られていて、果物かごのような楽しさもあります。輝いている果実は、「狂言歌謡」、「謡曲」の一節、「田楽能《でんがくのう》」の謡の一節、「漢詩句」の一説、「杜甫《とほ》の詩の読み下し体、「和漢接合形式」ともいえる類の小歌、など、心の色合いを、個性的な言葉の形、詩句で伝えてくれます。とても豊かな良い本だと、私は思います。
次回は、室町小歌の新しい表現の歌を咲かせます。その次に、俗と雅、新しさと伝統について考えます。
●以下は出典原文の引用です。 ☆小歌集を読む
室町小歌はどんな手法でまたどんな旋律で歌われていたのであろうか。
尺八や鼓、また扇拍子や手拍子に合わせても歌われていたようだが、詳しいことはよくわからない。現在狂言の舞台で歌われる
狂言歌謡を通じてその雰囲気はある程度は感じ取れようが、そこには伝統化された古典芸能としての洗練も加わっていることは当然考えておかねばならぬ。したがって
室町小歌の曲節を正確に知るということは甚だ困難といわざるを得ない。
しかし
曲節を離れて詞章を読むだけでも、室町小歌のおおらかで素直な、それでいて巧み巧まぬ独自のスマートさを備えた文芸としても面白さは、十分賞味出来るはずである。
☆小歌の時代
(略)この謡物《うたいもの》、小歌と呼ばれているように、それまで世に行われた
和讃《わさん》(仏教歌謡)や
早歌《そうか》(宴曲)に比べると、短詩形の小曲であるのが特徴である。1603年刊の『日葡《につぼ》(日本ポルトガル)辞書』には、「コウタ。
短い通俗的な歌謡。」と、あり、同じ時期に成ったロドリゲス『日本大文典』には、「"小歌"と呼ばれる種類の韻文がある。これも五音節と七音節との韻脚を持った二行詩の形式のものであるが、時には二行詩五七五・七七ほどの韻脚を持たないものもある。普通には
談話に使ふ通用語を以て組立てられていて、特有な調子を持った
俚謡《りよう》(地方の民謡)や踊り唄のやうなものである。」と、あるように、多くは二行にまとめられるほどの短詩形、中には、
思ひの種《たね》かや、人の情《なさけ》 (81)
【訳】悩みの種でしかないのかなあ、人を愛するということは。
潮《しほ》に迷うた、磯《いそ》の細道 (122)
【訳】潮ならぬあの女《こ》の愛嬌《しお》に迷わされ、さまよう磯の細道よ。
独《ひと》り寝《ね》に鳴《な》き候《そろ》よ、千鳥《ちどり》も (*19)
【訳】淋しげな声で鳴く千鳥よ。お前も私同様独り寝か。
言へば世にふる、遣瀬《やるせ》もな (*89) (*印は『宗安小歌集』。以下同様)
【訳】弁解すればするほど我々のことは世間に広まるばかり。ああ―。
といった一行詩にしかならないような、十二音~十四音の極端に短いものもある。
歌謡も、
長篇の謡物《うたいもの》が喜ばれる時代もあれば、
短詩形の流行する時期もある。ただ子細にみるとその詩形は常に長篇性と短篇性と両者の間を右に左に揺らいでいるようであって、平安時代から鎌倉時代にかけてさかんに創作された
和讃は、一見長篇の謡物のようであるが、たとえばその『舎利構式《しゃりこうしき》和讃』をみるに、
・・・(略)世間本《もと》より常なくて/是ただ生死《しやうじ》の法といふ/生をも滅をも滅し終《を》へ/寂滅なるをぞ楽とする」一切衆生《しゆじやう》ことごとく/常住仏性備はれり/仏は常に世にゐます/実《げ》には変易《へんにやく》ましまさず」(略)・・・
と 」 (カギカッコ)で区切ってみたように実際には
四行一連の組み合せという体裁をとっている。これは他の和讃も大部分は同様である。そして右の「くしな城には」と「二月十五の」以下の各四行(引用は略)は、それぞれ独立した
今様《いまよう》として
『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』(172、174)にとられているのである。
また鎌倉時代に盛行した早歌《そうか》(宴曲)にしても、いつかその長大な詞章の中からごく小部分を抜き出して歌われるようになったらしく、『閑吟集』には集中に、
花見の御幸《ごかう》と聞えしは、保安《ほうあん》第五の如月《きさらぎ》 (20)
【訳】花見の御幸として名高いのは、保安五年の春二月、法勝寺への御出《おんいで》まし。
といった短詩形早歌が(80を含めて)八首収録されている。
ところが近世に入るとこの傾向が逆流して、初期
歌舞伎《かぶき》踊歌や
三味線組歌にみられるように、これらの小歌を組み合わせたり掛合形式にしたりして長篇風の歌謡に仕立て直すことが行われるようになる。
ただこうした長波短波のうねりの中でいえば、室町時代は、長篇の謡物《うたいもの》は
謡曲や
放下歌《ほうかうた》のような芸謡歌謡に委ねて、一般には短詩形歌謡を主流とした時代であった。室町小歌を集録した『閑吟集』をみても、全三百十一首の中に小歌はその四分の三を占めている。そしてその小歌の中には、前に述べた早歌の小歌化されたものもあれば、
今夜《こよひ》しもふ州《しう》の月、閨中《けいちゆう》ただ独《ひと》り看《み》るらん (102)
【訳】今夜は遠いふ州で、妻は私と同じくこの月を眺めていることだろうよ。
のように、杜甫《とほ》の詩をそのまま読み下し体にしたものもある。また、
二人《ふたり》寝《ぬ》るとも憂《う》かるべし、月斜窓《しやさう》に入る暁寺《げうじ》の鐘《かね》 (101。*11にも)
【訳】二人で寝たところで辛く思うだろうよ。窓から傾いた月が斜めに射し込み暁の鐘の響きを聞く時は。
のように、下句に元《げんしん》作(略)の一説を組み合せた
和漢接合形式ともいえる類の小歌もこれまた少なくないのである。ということは本来他の謡物であったものを小歌に同化してしまったということのようで、集中に五十首ほども収められている
謡曲の一節にしても、(略)一曲の中ではいわば小歌がかりともいうべき旋律部であることが既に指摘されている。ほかに純然たる
漢詩句や
田楽能《でんがくのう》の謡の一節もあるが、右の傾向を考えればこれらもまた小歌風の曲説で歌われていたものではなかったかと考えられるのである。
小歌という語の起源は実は古く、もとは大歌・小歌と併称され宮廷における歌曲の一種であったらしい。それが中世に至ると『閑吟集』や『宗安小歌集』にみられるような、
より世俗的なものに変貌《へんぼう》して、いわゆる室町小歌の世界が展開するのである。(略)
このように歌は、中央から地方へ、逆に地方から中央へと運ばれた。謡曲にみる「諸国一見の僧」に代表されるように、
旅をする連歌《れんが》師、琵琶《びわ》法師、商人、職人等、中央と地方を結ぶ文化の運び手には事欠かない時代になっていた。このような背景のもとに「都鄙遠境《とひゑんきやう》」(『閑吟集』序)の宴席に連なり、「貴《たか》きにも交はり賤《いや》しきにも睦《むつ》」(『宗安小歌集』序)んだ隠者さちの手によって編纂《へんさん》されたのが、これらの小歌集であったのである。
出典:「解説 室町小歌の世界―俗と雅の交錯」『新潮日本古典集成 閑吟集 宗安小歌集』(校注・北川忠彦、1982年、新潮社)*読みやすいよう、ふりがな、数字、記号、改行などの表記を変えた箇所があります。ふりがなは《 》内に記しました。( )内の洋数字は小歌集の歌の通し番号、または西暦です。引用歌謡には、出典の訳文を【訳】として付記しました。
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