Entries

万葉集の好きな歌 (巻二) 大伯皇女の挽歌

万葉集巻第二 挽歌
大伯皇女 オホクノヒメミコ

見まく欲(ほ)り我がする君もあらなくに何しか来けむ馬疲るるに
(訳)
逢いたいと願う弟もこの世にいないのにどうして帰ってきたのでしょう。馬が疲れるだけだったのに

うつそみの人にある我れや明日(あす)よりは二上(ふたかみ)山を弟背(いろせ)と我れ見む
(訳)
現世の人である私、明日からは二上山を弟としてずっと見つづけよう

磯の上に生ふる馬酔木(あしび)を手折(たお)らめど見すべき君が在りと言はなくに
(訳)
岩のあたりに茂るアシビの枝を手折りたいけれど、見せたい君がこの世にいるとは誰も言ってくれない

(角川ソフィア、伊藤博訳)

万葉集に大伯皇女の歌は六首のみ。
けれどどの歌も、心に強く響きます。権力抗争で罪人とされ殺された弟への歌が、かき消されず伝えられたのは、誰にも否定できない人としての真実があるからだと思います。
ギリシア悲劇のアンティゴネと通う、悲しみ、悼みの想いの厳粛さ、清らかさに心打たれます。

新校注 萬葉集」(井出至ほか、和泉書院)は、上代仮名遣いと和歌の訓(よ)みに謙虚で独断がなく良いと思います。
「万葉事始」(毛利正宅ほか、和泉書院)は大学テキストです、音韻、上代仮名遣い、字余り短縮について、これまでの万葉研究を踏まえて、とても丁寧で教えられ手元におき利用します。

万葉集の、一人称。我と吾の訓(よ)みが、学者でまちまちなので、調べましたが、アともワとも読み、どちらともいえないのが、謙虚な捉え方で、日本語の根本にある曖昧さ、自由です。
書き手として。幾通りかに読める漢字で、この音で読んでほしいとき、私はふり仮名を必ずつけます。
つけないと、どちらに読まれても仕方なく、間違いでもなく、著者にこだわりがなくどちらでもよいのか、サボッたのか、読者の自由に委ねたかで、文学は統一テストではなくまちまち、いい加減、偶然だからこそ心のびやかにひろがる宇宙です。

関連記事
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
https://blog.ainoutanoehon.jp/tb.php/1200-948a3474

トラックバック

Appendix

プロフィール

高畑耕治

Author:高畑耕治
Profile:たかばたけ こうじ
1963年生まれ大阪・四條畷出身 早大中退 東京・多摩在住

詩集
「銀河、ふりしきる」
2016年イーフェニックス
「こころうた こころ絵ほん」2012年同
「さようなら」1995年土曜美術社出版販売・21世紀詩人叢書25
「愛のうたの絵ほん」1994年同
「愛(かな)」1993年同
「海にゆれる」1991年土曜美術社
「死と生の交わり」1988年批評社

最新記事